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雖然知道但無法停止
by haruhico
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「花と蛇」
※注1 この作品はR18指定ですので春休み中のよい子のみなさんはご覧になれません。あしからず。
※注2 このレビューはマニアの男性の視点でかかれていますので、一般の男性や女性がこの映画を見て同じ感想を持つかどうかは保証いたしません。

【雑感】
 私は映画を全く見ない。生まれてこの方、映画館で観た映画は子供の頃のサンリオ映画まで含めても30本がいいところだ。テレビ放映されたものはどれだけ見たか分からないが、まぁ普通の人の20分の1以下なのは間違いない。とにかく2時間近く(テレビならそれ以上)拘束されるので、よほどのことがないと見ない。だから大ヒット映画なんて全く見る気がしないし、映画に関する知識に大穴があいていることを認める。一昨年は阪神ファンの義務として「ミスタールーキー」を、昨年は西原理恵子ファンの義務として「ぼくんち」を映画館に観にいった。だからここ2年は1年に1本ペースで見ていることになる。今年は多分この「花と蛇」で打ち止めだ。

 撮影中から公開したら観にいこうと思っていた。山咲千里の「アナザースキン」にも衝撃を受けたが、杉本彩が吹き替えナシで団鬼六の「花と蛇」に挑むというのには、それ以上の衝撃を受けた。どんなものが出来上がるのか、過去の例からして期待3分の不安7分くらいで公開を待っていた。事前に週刊誌のグラビアを通じての大パブリシティがあったが、袋とじでないものだけ(苦笑)目を通した。それによると杉本彩がわざわざ出演の条件として石井隆監督を指名したという。石井監督と言われても、映画の知識のない私にとってどんな作風なのか、ほとんどわからない。朧ろげな記憶で、暴力や血にこだわりを持つ監督、というようなものがあるが、確証はない。

 予告編をネットで見つけて観た。2分あまりの映像で大筋は読めた。道化役の衣装がブッ跳んでいて、まるで「ダーティ・松本」の世界だ。それも最近の作風の。よりによって男がセーラームーンの格好はないだろう。現在の杉本のハマリ役であるクイン・ベリルをお仕置きするのだからこの衣装が適当であろうという皮肉なのかと深読みしたくなる。

 この時点で1800円払って観にいくのは相当なギャンブルであると直感した。土日の2時間を費やすのも躊躇われてきた。都内で上映している映画館は現在3つしかないがスケジュールを見ると銀座シネパトスのレイトショーが1300円(ネットの200円割引券は後で気づいた・爆)だという。20時からなら夕食をとってからでも楽に間に合う。平日夜の2時間ならそれほど惜しくもない。月曜日は雨。客の少ないところでゆったり観たかったので傘をさして銀座へ向かう。

 事前に地図を見てきたが、銀座シネパトスは4丁目交差点を東銀座方面へ行く道路の下にある。実際入り口が分からず少しまごついたが、地下に向かう胡散臭さがこれから見る映画にマッチして何とも言えぬ緊張感があった。前の回がまだ終っていなかったので外で待っていたのだが、外にいたのは私と私より少し年上の男。あとは見事なまでにオヤジだらけである。前の回が終って出てくる顔ぶれを見ても、若いカップル(と言っても私より少し年下なだけ)が1組と、あとはいかにも週刊誌を袋とじ目当てで買ってます、といった感じの40代半ば以上の男性ばかり。エラいところに来てしまったな、と内心苦笑しながら真ん中あたりの列のど真ん中の席に座る。他の列より幅が広いのでゆったりできる。客の入りはざっと20人弱。入れ替え制ではないので、前の回から引き続きおやすみ中の客もいる。入ったことはないが、上野のその筋の映画館もこんなものなのだろう。まだ20分ほどあるので本を読み始めるとゴーッという音が聞こえる。何かと思ったら、地下鉄日比谷線の走行音だ。やれやれ、こんなんで大丈夫かしら。

 予告編が始まる。場内が暗くなるとガサゴソと人が入ってくる。明るい内に入ってくるのは気が引けるのだろうか。それでも私の座っていた列は4人しか座っていない。両側の肘掛を独占して柔らかな椅子に沈み込む。つまらない映画なら一発で眠れるだろう。

 オープニングで杉本彩の体を一匹の蛇が這う。本物かと思ったが口に含んだ瞬間CGだと分かる。予告編では気づかなかったほどで逆に言えばそれだけ真に迫っている。あとは特撮らしいシーンはなくリアルな映像ばかりだ。

 以下五月雨式に解説しても埒があかないので、急所のシーンを中心に感想を述べてみる。

【批評】~ここから先はネタバレが数多く存在しますので、伏せ字の部分は鑑賞後にご覧になることをオススメします~

 まず、団鬼六映画の主演女優としての杉本彩はどうなのか?をマニアの視点で考えてみよう。

 サディストの嗜虐心をそそる行為というのは大きく分けて2通りある。

 1つは弱いものを踏みにじるという行為、そしてもう一つは強いものを更に強い力で屈服させるという行為だ。杉本彩というキャラクターを対象として考えたとき、どちらのシチュエーションがよりハマるであろうか?後者であることは論を待たない。例えば会社社長や大物女優といった、権力を持ち、周囲に男をかしずかせ、叶わない望みなどない、といったスーパーウーマンを罠に陥れ、その虚飾を剥ぎ、一個の牝に仕立てる、といったシチュエーションだ。

 今回の杉本彩の役どころは、一流会社の社長夫人で世界的なタンゴダンサー。であればストーリーを盛り上げるためには彼女がいかに高慢で鼻持ちならないか、周りの人を人と思わないかであり、それが描ければ描けるほど、辱めた後の責める側(=観客)のカタルシスは大きくなる。ざまぁねえや、という感覚だ。

 ところが今回、脚本も担当した石井隆監督はあろうことか杉本にセックスレスだが貞淑な妻、という役どころを振ってしまった。劇中杉本は自分の仕事をセーブして野村宏伸演ずる夫に尽くそうとする。セックスレスなのも夫に合わせられない自分が悪いと責めている。確かに団鬼六文学のヒロインは圧倒的に清純で貞淑な女性が多い。原作も勿論そういう女性である。しかし杉本彩を起用して撮ると決めた以上、原作のヒロインのイメージとは決別しなければならなかった。決別しなかったことで外見は女王様だが中身は淑女という矛盾したヒロインが出来上がってしまったわけだが、この外見と中身のギャップを利用しない限りキャラクターとして中途半端な感じを与えてしまう。

 さらに、杉本彩には団鬼六文学の主役として2つの致命的な欠陥が存在する。それは鍛えられた肉体と羞恥心の欠如である。

 杉本は今回の撮影に向けて2ヶ月の筋トレでシェイプアップしてきたそうだが、無駄な努力としか言いようがない。確かに体力を消耗する撮影だっただろう。しかし、縄を掛けられて醜く変形することのない肉体のどこに欲情すればいいというのか。残酷な言い方だがプラスチックで出来たリカちゃん人形に縄を掛けても面白くないのと一緒である。美しい肉体が縛られ乱れていく中にある凄惨美こそ緊縛の醍醐味であるのに、それとは逆の方向へわざわざ努力している。もちろん人それぞれ美意識が違うのでこれが唯一絶対ではないが、少なくとも私は縛られ吊るされた杉本に「美」を感じなかった。

 もう一つの欠陥である羞恥心の欠如は杉本が本質的にはSであることの裏返しであろう。

 人間というものは見てはいけないと言われれば見たくなるものである(最近の「週刊文春」などその最たるものであろう)。逆に、見せてあげる、ほらほら、と恥ずかしげも無く露わにされると仮に同じモノであっても全く見る気を起こさない。そして杉本は裸に剥かれ、縛られていく中で一度としてこの羞恥心を見せなかった。口の悪い言い方をすれば為すがままのお人形であり、抵抗の一つも示さないのである。これは演出の怠慢でもあり、殺されかねないのだから無抵抗で当然だろうというのは言い訳にならない。なぜなら、団鬼六文学のヒロインにとって貞操とは死を賭して守るものであり、辱めを受けるなら死んでもかまわないという近頃稀な意志を強く示すことがヒロインとしての神聖さの記号であるからだ。ところが杉本は人として一番恥ずかしいシーンであるはずの放尿シーンですら、ためらい、恥じらい、尿意に耐える、といった表情や態度を示さなかった。確かに2リットルはある利尿剤入りの水を本当に飲まされたら(といってもあのように連続して口に入れようとしても飲み込めずに間から漏れるに決まってるので実際に飲んだ量はその4分の1もないだろうが)そんな演技をしている余裕はないのかもしれない。だが、それはリアリズムではなくて手抜きである。少なくともSMに理解のある監督なら極限まで杉本に我慢をさせ、その苦悶の表情を逐一撮るであろう。そして、臨界点を超えて解き放ってしまった後の、後悔、絶望、羞恥、開放感、といった表情と対比する。そうでなければ演出上このシーンの必要性は全く無い。

 それ以降の様々な責めもなぜそのような責めが出てくるのか、原作を読んでいないのでどれだけ原作に忠実なのかは分からないが、例えば花魁道中など、映像として美しいのかもしれないが、ストーリーとしての必然性も無ければ、田代老人が喜んでいるわけでもない。ただこういう映像が撮りたかったという監督のエゴすら感じる。水責めも蝋燭も磔も全て「自己目的化した責め」でありこれらの責めを通じて静子の中で何ものかを生じさせようとする意図が全く見えないのだ。刺青にしても映画の中の時間がせいぜい一晩か二晩しか経っていないから本当に彫れるわけが無い。つまり、ストーリー上彫ったものとして体に刺青を描くのではなく、最初から描いた刺青によるコスプレなのである。団氏の原作は文庫本にして10巻の大作で刺青を入れる時間は十分にあるので一針一針刺される痛みや二度と消すことの出来ない烙印を押されるという絶望感を描いていると想像できるが、逆にこのシーンは映画の展開上最も意味がないと言える。

 そして最大の問題は、全編を通じて、杉本演ずる静子が性的に目覚めたと明確にアピールするシーンがないのである。夫とのセックスシーンは本来そのためにあるべきなのだが、通り一遍のセックスにすぎず、調教によって男を喜ばす体に生まれ変わったことが全く示されない。つまり、色々な調教は全て徒労に終わり、観客はカタルシスを感じられないのである。最後の最後で石橋蓮司演ずる老人を腹上死させるが、それすら男を求めて止まないといった愛欲に溺れた姿ではなく、義務感で淡々と行っているようにしか見えなかった

 共演の若手女優未向(みさき)についてもふれておきたい。演技を云々しているレビューを見かけたが、正直な話、彼女の方が数倍杉本よりも役どころをわきまえていたように見える。杉本同様に吊るされても彼女の方が圧倒的に色っぽいのである。未向演ずる京子は、縛られてたわむ胸、溢れる肉、苦悶の表情、そして乱暴な言葉で抵抗しながら、徐々に力なく屈服させられる様、そして最後には、静子を拉致しようとする男たちを撃退する程のマッチョな女がバイブレータに喘ぎながらも一線を守ろうとする姿すら見せる。

 そう、先ほど述べたヒロインとしての記号を脇役である彼女の方が鮮明に示していたのである。そして強制されたレズビアンショーの中で静子への想いを告白する京子。そのあまりの唐突さに観客は唖然とする。確かに金で雇われたボディーガードにしてはあまりにも命知らずで一途な点に不自然さを感じていたが、雇われてから静子と一緒にいたシーンがほとんど描写されない中で、伏線もなく急にそんなことを言われても取って付けた不自然さしか残らない。そして愛する静子を救うため立ち上がる京子。しかし、あえなく銃で撃たれ生死不明のまま表舞台から退場。役者としての格のせいもあるだろうが、この使い捨てにはいささか不満が残る。

 団鬼六の描く人間模様には裏切りが付き物である。誰よりも信頼していた人間が実は自分を陥れた真犯人であったという推理小説的な構図は大概の作品で出てくる。今回は夫の裏切りがそれにあたるが、静子と夫との関係を「信頼しきっていた」と書くのはいささか躊躇するものがある。この夫なら裏切ることもあるだろう、と観客が思ってしまうようではサプライズとして弱い。それを補強するつもりか、夫自身が元腹心(と言っても自らの手でクビにした)に裏切られ強請りの材料を握られたり、一緒に拉致されたと思われた運転手(なぜか彼だけは忠誠を示している姿が多少描写されている)が裏切ったりしているが、どちらも絶対的な信頼感が崩れる絶望感とは無縁のものであり、むしろ蛇足の感がある。

 言っても詮ない繰り言であるが、もし、愛する静子を助けるために銃弾に倒れたはずの京子が実は最初に現れた時から静子を陥れるための陰謀に荷担していてそれが最後に明かされたとしたら、きっと大きなサプライズとなったであろう。外見からして未向という女優にそれくらいのことが出来てもおかしくない器を感じた。

 遠藤憲一のヤクザがいい、とか、石橋蓮司の怪演がいい、といったネットでのレビューをあらかじめ読んだ上で観にいったのだが、実物を見るとなるほどいい演技である。しかし、所詮「木を見て森を見ず」の謗りは免れ得ない。これはヤクザ映画ではないのだ。遠藤憲一が野村宏伸を脅すシーンの存在感やほとんど言葉を発っせない状況での石橋蓮司の演技は凄いのだが、それらはあくまで刺身のツマである。

 トータルで考えると遠藤憲一演ずる森田が静子に何をしたのかといえば素人の静子に銃で打たれて死んだだけで、這うことしか出来ない石橋蓮司演ずる田代老人のボディーガードすら出来ていないのだ(田代老人に銃を持たせるくらいなら自分で最初から構えていればいい)。石井監督だから最後に静子を殺してバッドエンドかとも思ったがそれすら出来ない。まさに本人の言うところの「ガキの使い」であって後半の姿は滑稽ですらある。田代老人も片手しか動けない状況で這いながら静子に向かう姿は鬼気迫るものがあるが、最初から予定調和の結末が予想でき、その通りになっては何の感慨も沸かない。仮に遠藤憲一自ら先頭に立って静子を責めたてればまだしも、大の大人が2人して「見てるだけ~」とは何とも芸が無い。勿論その第一の責任は石井監督にある。

 結論として、この映画はSMというものに造詣が深ければ深いほど失望をもたらすであろう。舞台装置だけを借りてその心を理解しない監督と主演女優によって製作されているからである。かといって全くの素人がこれを見るとSMとは何かを間違いなく誤解するだろう。そういう意味で罪つくりな映画だと思う。「杉本彩」の「杉本彩」による「杉本彩」のための「プロモーション映画」、それ以上でも以下でもない。ただ、R18指定という枠組みの中で従来では妄想するしかなかった映像を公共の場で上映することを可能とした、という意味で転換点となりうる作品であることも確かだ。

 公式サイトによると、1時間55分の本編以外にも映倫からヘアの露出が長いとしてカットされたシーンが相当あると聞く。もちろん理由が理由だから、それらのシーンは結果として中途半端に細切れとなった調教シーンであることは想像に難くない。であるとすれば、映倫を恨むより、なぜそんなつまらないプライドのために高い金を払って映画館で見る観客を蔑ろにするのか、という怒りが湧いてくる。それならもっと各キャラクターの背景や関係の描写に費やすべきだったろう。

 ネットで有料で公開すると言っても、DVD化の際には間違いなく特典ディスクかディレクターズカット版で出すだろう。それを見たら、もしかして上の非難を撤回する可能性が%くらいはあるかもしれない。
by haruhico | 2004-03-25 02:09 | 書評
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